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第4回  〜テレビゲームの特殊性〜

 私は、ゲームのシナリオ書きだったが、ひょんなことから、アニメのシナリオも手がけるようになった。一度くらい試しにやってみっか? くらいの気分で受けたアニメシナリオの執筆だったが、いまではすっかりアニメの仕事のほうが主流になってしまった。世の中、どう転ぶか全くわからない。

 ゲームの仕事をしているときから、漠然と思っていたことがある。ゲームというメディアの特殊性についてだ。面白いもので、アニメの仕事を始めてみて、逆にゲームと通常のメディアの違いを、けっこうハッキリと感じることになった。今回は、私が感じたゲームメディアの特徴のお話。

 テレビゲームに限らず、スポーツやカードゲーム、ギャンブルetc… おおよそゲームと名の付くものは、連続する緊張と弛緩によって成り立っている。簡単に言えば、ドキドキしたり、ホッとしたりする要素が必ず入ってるってことだ。これは、通常の映画やドラマにも必要不可欠なわけだが、ゲームの場合、これが必ず連続していなきゃならん、ということだ。何故か? 映画なんかは、視聴者は普通、座っているだけなので、ストーリーがゆっくり盛り上がってのち、ガガッとドラマチックな展開に持ち込むことができる。ところが、だ。ゲームの場合、視聴者ではなく、プレーヤーというくらいで、常になにかをやらせなければならないという宿命があるのだ。ただ見せたり聴かせたりするだけでは、ゲームとは呼ばないからね。

 だから、ゲームは、映画以上にこまめに緊張させ、弛緩させなければならない。緊張と弛緩は表裏一体の関係だから、緊張をプレーヤーに味合わせるためには、どこでどのように弛緩させるかということも重要だ。むしろ、緊張させることよりも、どこでどう弛緩させるかのほうが難しい。

 わかりやすい例では、シューティングゲームの難易度調整。シューティングものを難しくさせるのは簡単だ。敵を絶対死なないほど固くしたり、敵の攻撃をやたらと増やしたりすれば良い。でも、それじゃ、プレーヤーがクリアすることも難しくなってしまう。だから、遊べる程度に敵を弱くしたりする必要があるわけ。この弱くするさじ加減が一番大切なのだ。
 この緊張と弛緩のバランスが、よくいうゲームバランスの正体だと思っている。
 緊張と弛緩のバランス配分というのは、ゲームデザインだけではなく、ゲームのシナリオ自体も考慮しなければいけない。その上、シナリオというくらいで、どうしても映画やアニメのシナリオと同様に考えてしまいがちだが、じつはこれが大間違いなのだ。

 私はライターだから、仕事は、アドベンチャーなどストーリー性の強いゲームの場合が多い。ゲームの会社自体が、誤解してることも多いのだが、実は分岐してストーリーが変わるだけだと、それは単なる分岐する物語に過ぎない。ゲームシナリオは、デモシーンはともかく、映画やドラマなどの作劇思想をそのまま使えないのだ。
 小説や通常のドラマシナリオならば、作劇(ストーリー進行)のイニシアチブは完全に送り手側が持つのに対し、ゲームが特殊なのは、作家がストーリー進行のイニシアチブを完全に持つことができないことにある。さっきも言ったように、プレーヤーが操作してなんぼだからね。普通の映画のシナリオと同じように考えていると、単なる1本道のお話になるだけで、ゲームのシナリオとしてそのまま使うのは難しいのだ。

 通常の小説やシナリオというのは、作家の自己表現の場と言えるが、ゲームの場合、自己表現をするのは、あくまで受け手(プレーヤー)側にある。つまりゲームを作るということは、プレーヤーの表現の場を構築することに他ならない。特にシナリオは、作者の作家性が濃く出てくるため注意が必要だ。
 私は、プレーヤーの自己表現を成り立たせるためのゲームデザインやシナリオの技術が、確実にあると思っている…のだが、頭が悪いので、なかなか巧くまとめられず、いま、四苦八苦している。

 私が技術的なことに、やたらとこだわってるのは理由があるのだ。
 ゲームクリエイターがスポットライトを浴びる昨今、インタビューなどでゲームの制作スタッフの発言を見聞きするようになった。ところが、音楽や映画を語る論法でしか、自作を語れないスタッフがあまりに多い。
 既存メディアの論法で語ること、それ自体は別に構わないんだが、そういう語り口でしかゲームを語れないのはやっぱ寂しいと思う。せっかくメディアとしてのゲームが認識されてきたのだから、ゲームならではの、音楽や映像とタメを貼るような、独自のテクニカルタームや語り口というのが欲しいよなあ、と思ってしまって仕方がないのである。

 堅い話になっちゃって恐縮ですが、ゲームの話は次回も続きますよん。

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