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第9回  〜オタクと私(前編)〜

オタク相手にオタクな仕事をするオタクな自分が、オタクというものについて考えてみようと思った。

やっぱ寂しいのが普通ですか?

 なにしろ私は、子供の時分から、怪獣やロボットが死ぬほど好きなのである。当然、マンガも大好きだ。この場合のマンガは、アニメも含まれている。当時は、劇場用アニメをマンガ映画、テレビアニメをテレビマンガなどと呼んでいて、アニメーションなどという言葉は一般に普及していなかった。ところが世紀末にもなれば、すでに老人である私の両親ですら、ごく普通にアニメなどと日常会話で使うのだから驚きである。
 アニメの呼び名はさておき、子供の時分から好きだ、と言ったが、だいたいは途中で卒業してしまうようだ。卒業できなかった子供は、そのときとても寂しい思いを味わうらしい。少年ジャンプに連載されて、アニメ化もされた人気コミック「ウィングマン」でも、ヒーローマニアの主人公が、そのようなことを話していた記憶がある。おそらくは、作者の桂正和さんの心の叫びだったのだと思う。私の周囲には当然のごとく、大人留年組の若者が多かったが、その台詞に共感を覚えた人たちが少なからずいたことを思うと、やはり寂しいものらしい。
 私の場合は、少し違っていた。他の友達が、どんどん特撮ものやアニメなどから興味が無くなってくると、それだけ独り占めできるような気がして、嬉しくて仕方なかったのだ。いま考えると、なにが独り占めなんだかよくわからない。単なる変なガキだっただけかもしれない。

世間が自分に歩み寄る違和感

 中学くらいになれば、せいぜいマンガの話くらいで、もう怪獣やアニメの話を楽しそうにする人はほとんどいなくなっていた。それでも私は一人、部活が終わると超特急で家路につき『コンバトラーV』を見る中学生であった。そのことを隠しもしなければ、アピールをしたこともない。それが元でいじめられるといった経験もなかった。変な趣味、くらいには思われていたかもしれないが、とりたてて浮いた存在でもないというスタンスだったのだ。
 そういった環境に満足していたのだが、あることがきっかけで事態は急変する。あることとは、ご存じヤマトブームである。
 いままで、アニメの話などしなかった友人達が、急にヤマトの話を教室で語りはじめたのである。それもロマンアルバム(当時発行されたムック)なんかを、持ち込んで設定がどうだこうだと嬉しそうに話している。女子はもっぱらキャラクターのことを話している。そういうのが好きだということで、クラスでも少し変人的なスタンスが気に入ってた私なのだが、『宇宙戦艦ヤマト』のせいで、急にスター扱い!
 ヤマトに関することを、なんでもかんでも私に聞いてくる。やれ、スターシァがどうの、第三艦橋がどうのと、嬉しそうに訊ねてくるのだ。ここで得意げに、極端にマニアックな話をして、相手に引かれてしまう……というのが、この手の王道パターンだが、私は適当な返事をしてそれだけはしなかった。級友に鉄道マニアがいて、そいつがもろに、そのような性格だったからだ。鉄道に詳しいからと、電車の乗り換え駅をちょっと訊いただけでも、30分はゆうに語ってくれてしまう。それを見ていたので、アレはちょっとかっこわるげだなあっと思っていたのである。
 とにかく、私にとってアニメや特撮みたいなものは、個人的に面白いかつまらないか、だけの世界であり、それを他人と語ろう、というセンスを当時はまったく持ち合わせていなかった。まあ、いまもライターのくせに、あまり得意とは言い難いのだけど……

アニメファンという区分け

 さて、ヤマトブームが過ぎ去ってホッとしつつも、特撮ものが全く制作されていないことに憤りを感じていた頃、今度は海外から憂鬱のタネがやってきた。『スター・ウォーズ』だ。この時は、アニメでもなければ、変身もしないし、こりゃ俺の出番はねいわい、と思っていたが、普通の人には、みんな一緒らしく、また質問攻撃が始まった。R2D2のことを「あーるでーつーってさあ」などと話してくる友人を相手に『SW』の話なんかしたかねー! と思いつつ「そうそう……。アールトゥ・ディーツゥは、喋らねい所がいいんだよな」などと話していた。
 瞬間風速的だった『スター・ウォーズ』ブームが去ったと同時くらいにやってきたのが『機動戦士ガンダム』。だが、この頃は、もうみんな高校生になっていたので、アニメを観る人と観ない人は、クッキリと区別されており、クラス中をあげてガンダムフィーバーということはなかった。思えば、ウチの生まれ育ったド田舎ですら、世間的に「アニメを好きなやつらは、アニメファンという人種である」といった認識ができあがったのは、この『ガンダム』の頃だと思う。

そして、オタクへ……

 まあ、そんな感じで世間とつきあっていたわけだが、例の宮崎事件以降、環境が一変した。オタクという単語が一人歩きを始めたからだ。私はこの時期から、みずからオタクを自称するようになった。この事件のかなり前から、オタクという呼び名は存在していた。オタクと呼ばれる人が、相手のことをオタクと呼ぶということで、雑誌で馬鹿にしたのが始まりらしい。自分は「アニメック」という雑誌のゼネプロ(今のガイナックス)の記事で、その呼び名を知った。そういう人は、なぜか自分をセッシャとかアチキとか呼ぶ人が多かったのだが、こちらは普及しなかったようだ。
 元々、オタクという単語は、マニアが同類のマニアを侮蔑するときに使用していた呼称だ。第三者から見れば全く同じ行動・言動・容姿なのを棚に上げ「あいつ、オタクだからさあ」などと使うのが正しい用法である。
 要するに目くそが鼻くそを笑うときの言葉だったのだ。いい年をしてアニメが好きだったり、怪獣が好きだったりすると、一般の人から陰で汚物呼ばわりされたり、変な差別をされたりするのを自覚した上で、「あいつよりはまし」という自己安堵を得るための道具であり、他人を貶めることで、自分のステータスを保持しようというマニアの浅ましさの現れがオタクという単語だったのだ。
 私は、(自分を含めた)マニアのそういう心の狭さが人間くさくて大好きで、ゆがんではいるが、そのいじらしさを愛していた。だから、オタクを自称していたのだ。単に根がひねくれているだけ、ともいうが。
 そして現在、オタクを変に持ち上げるサブカルチャーな人たちの手によって、オタクを自称する事は、営業的なキャッチフレーズとしても使えるようになった。せっかくだから私も喜んで使わせてもらっている。
 確かに世間でのオタク差別はあるのだろうし、中学高校あたりになれば、いじめられたりもするらしいが、自分的にはそういったことが、あまり気にならない。たぶん、そういったことで何らかの実害を受けたことがないからだと思う。だから、今後も私はオタクを自称し続けるだろう。
 ただ、偉そうなことを言う割に、自分はオタクとしてイマイチのような気がしてならないのだ。なぜか?
 それはまた次回の講釈で……(最近CS放送の『西遊記』にハマってるらしい)

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