『アニゲの狭間』インデックスへ

第18回  〜ヴァーチャル・リアリティは夢オチか?〜

少し未来の話だけど……

 少し未来の話になってしまうが、おそらく近いウチに現実化すると思われているモノも、小説や映画に登場している。それはヴァーチャル・リアリティという概念だ。
 ヴァーチャル・リアリティというのは、仮想の現実感の直訳だが、その技術や概念そのものを指す場合が多い。単純に言えば、作られた世界を、なんらかの方法で体感することだ。
 少し未来といったが、操縦技術のシミュレーターの世界では、もう当たり前の技術になっている。ここで私が言っているのは、乗り物の操縦シミュレーションのような限定された局面のヴァーチャル・リアリティではなく、もっと大きな、世界そのものを人工で作り上げて、その世界に入り込むような大規模な技術のことだ。最近では『マトリックス』のアレと言うとわかりやすいか。
 このヴァーチャル・リアリティ、すでにSF小説やSF映画だけのものではなく、一般作にもチラホラ登場し始めている。前回、便利すぎるアイテムの登場で、作劇そのものが変化する話をしたが、私はヴァーチャル・リアリティという存在を少し懸念している。

作劇の禁じ手?

 作劇の禁じ手に、夢オチというのがある。夢オチというのは、話を散々盛り上げておいて、実はこれは主人公が見た夢でした……という作劇パターンのことである。なぜ、これが禁じ手なのかというと、作劇というのは、現実で起こっている事象であることが前提であるからだ。
 舞台が遠い宇宙だろうと、大昔であろうと、動物の世界であろうと、その物語世界で発生することは、その物語の中においては現実でなければならない。なぜか? 現実に起きていると仮定して、ストーリーが進行するからこそ、登場人物と自分を重ね合わせることができ、そこで初めてストーリーにのめり込むことができるのだ。

他人の夢の話はつまらない

 物語というのは、最後にどのようになるかを期待し、それを知りたい欲求があるからこそ、人を魅了する。夢とは、現実とは相反する世界であり、悪く言えばなんでもありの世界だ。どんな大変な事件やワクワクした事件が起こっても、最後は夢でした……では、それまで起こったことは全て無になってしまう。夢オチは、すべてだいなしにし、それを見聞きしていた者がだまし討ちにあった気分になる。
 見た夢の内容を精神分析的に楽しむという場合は別だが、他人の話す夢の話が、それを話す本人以外つまらないのは、それが最初から夢だと分かっているからだ。夢だとわかってしまうと、どんな面白い話も面白くなくなる。夢は何でもあり、の世界だからである。

ヴァーチャル・リアリティは、夢をみているのと同じ

 ヴァーチャル・リアリティは、いわば夢の世界だ。ただ、普通の夢と違うのは、何者かがそれを管理する事が可能だということと、場合によっては、自分が夢の中に存在していることを自覚している設定も可能なことだろう。このヴァーチャル・リアリティという設定を使う場合、よほど気を付けないと、単なる夢オチパターンの変形になってしまう。
 『マトリックス』現実と仮想世界を行き来することで、上手にサスペンスを盛り上げていった。圧倒的な映像感覚もそれを後押しして傑作に仕上がったと思う。しかし、これは最初にやった者勝ちである。同じパターンは通用しない。

ヴァーチャル・リアリティの安直な使い方は物語を壊す

 なんでもかんでも作者にとって都合の良い出来事が次々と起こって、これは仮想現実の世界だから……などといわれても、視聴者には通用しないだろう。
 物語には最低限必要なリアリズム、というのがある。大きなウソを付くには、小さなホントウを混ぜておく、というのは基本なのだ。
 物語の内容が全部がウソでは、それは物語の形をなさない。それをどう表現していくかで、才能の乏しい私は、毎回七転八倒しているため、ヴァーチャル・リアリティ世界というのはとても便利なように思える。しかし、それを安直に使うことは、物語の死を意味する。
 ヴァーチャル・リアリティという、いわばウソの世界を、どう上手く物語に盛り込んでいくか? というのが作家の今後の課題だと思う。
 私は、今後増えて行くであろうヴァーチャルリアリティを物語に使うときは、慎重にしていかなければならない、でないとそっぽ向かれるぞ、と自戒を込めて言いたいのであった。

『アニゲの狭間』インデックスへ