アニゲの狭間 第34回〜身を削る日々〜

 脚本を書くという作業は、楽しそうに思えるが、実は決して楽しいわけではない。お金を貰うのだから当然である。
 容赦なく締め切りというのは迫る。なのに、なにも思い浮かばない……などということは、日々当たり前である。

 オリジナルものはキツイっす

 オリジナルものの場合、ゼロから作っていくわけで、この苦痛は味わったものでなくてはわからない。
 本当にキツイのだ。
 イライラするし、もう書けなくなっちゃったのかも? という不安に襲われるし、不眠症になるし、胃が痛くなるし……。やがて、やる気も出なくなってくる。

 なんとか、発想の糸口を見つけようとしても、なかなか思うように集中出来ず、気が付くと締め切りに間に合わなかったときの言い訳を考えていたりすることもしばしばだ。
 また、モニターに向かってはいるが、普段見向きもしない、Windowsに標準で入っているソリティア(トランプゲームのアレ)にハマっていたりする。
 いや、これらは笑い話ではない。苦痛のあまり逃避行動に入ってしまうのである。
 人の生理的な反応としては当然なのだ。

 しかし、私のように、キャリアも浅く、コネもほとんどない無名なライターにとって、こういう逃げは自殺行為になるので、なんとか行動を仕事寄りに変え、毎日出来の悪い頭をフル回転させている。
 足を動かすと頭の回転もスムーズになるという説があるが、確かに散歩をすると、考えがよくまとまるので、気が付くと二駅分も歩いていたことがある。さて、まとまったから帰って書くぞ! と意気込んだはいいが、帰り道が億劫でやる気が失せてしまったというシャレにならない事態もあった。

 また、本を呼んだり、映画を見たりすることで、頭のどこかが刺激されて、やる気が出ることもある。が、これはやる気だけは出るが、話の発想そのものが生まれることはマレである。
 そもそも、映画を見た感動のまま発想したものをドラマ化したら、おそらく、それはその映画の単なる同人小説に近いものしかできない。

 原作ものはラクかと言えば……

 原作ものを脚本化する場合、正しくは脚色という。
 これは元があるから、結構ラクかと言えば、案外そうでない事も多い。
 そもそも、原作を引き写しただけなら、脚本家はいらない
 原作を絵コンテマンに渡して、コンテ化すれば済むのである。
 アニメーションの原作になるのは、基本的に、コミック、小説、ゲームなど他メディアのものである。
 メディアが変われば表現方法も変化する。

 ゲームのアニメ化の苦労は、以前に書いた。
 では、小説やコミックではどうか?
 ゲームほどではなくても、同様の苦労がつきまとう。
 そもそも、原作のまま脚本化した場合、想定された作品の時間が、短すぎたり長すぎたりしてうまく収まらない。
 短ければ、うまく原作を壊さず、逆に補う形で内容を引き伸ばさなければならないし、短ければ原作のエッセンスを残したまま、原作の内容を摘んでいく必要がある。
 また、放送コードの関係で、原作のセリフをそのまま使用できない場合も、最近非常に多い。

 例えば、30分もののTVシリーズなら、序盤・CM前・CMあけ・クライマックス・エンディングというフォーマットに合わせなければならない。
 脚本家は、与えられた原作をアニメ作品として完成させるため、新たに図面を引き直すわけだ。
 そのため、シーンを入れ替えたり、オリジナルの展開を追加したり、構成を工夫したりと言った作業が不可欠である。

 具体的にどうするか? というのは、脚本家それぞれの技術によって違うと思うが、自分の場合は、まず原作を読み込んで、ポイントとなるべき部分を見つけ、そこから全体構成を決めていく。
 このポイントは、シーンであったり、キャラであったり、セリフであったり、全体の流れであったり、場合によって全く違うものなのである。

 苦労の話、もう一回続きます。


『アニゲの狭間』インデックスへ