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第38回 〜教育に悪いアニメとは?(2)〜

 前回に続いて、教育に悪いアニメの話です。

 ドラマで死を扱うこと

 アニメに限らず、ドラマというものは、死というものを扱うことが多い。
 人の死がドラマの題材にされやすいのは、当然といえば当然で、いちばん受け手の感情を揺さぶりやすいからだ。

 これをありがちなパターンだというのは簡単である。
 だが、死という題材は、シェイクスピアの頃から、いや、もっと以前の神話世界ですら常に扱われている題材なのだ。まさにドラマの王道といえる。
「人が死んで話を盛り上げるのなんてワンパターンだよ」
 と、簡単に吐き捨てるてしまうのは早計だと思う。
 なぜなら、人は必ず死ぬからだ。
 死に接するのは、誰もが絶対に避けられない。
 家族、友人、会社の同僚、そして自分自身も含めて、あまねく死は訪れるのである。
 誰にとっても、ある意味最も身近ともいえる存在であるからして、死を扱ったドラマが多いのは当然なのだ。
 死を扱うことを作り手のワンパターンだと思うのではなく、人の死という状況を、どのようにドラマチックに扱えるか? ということにこそ、作り手の真価がある。

 確かに王道パターンであるが……

 前回書いた出血と同様、死というものは人生において当たり前の存在なのだが、子供向けの作品だからという理由で、人の死を扱うのを避ける風潮がある。
 確かに、幼い子供に強烈に死の存在を意識させるのは、キツイ場合もある。
 出血の場合とは少し違い、子供にとって人の死に立ち会うということは、あまり身近とは言えないからだ。
 しかし、問題なのは、死を見せたくないあまり、死の存在自体を作品中から全く消してしまうことである。

 ピンチの主人公をその仲間が自分の命と引き替えに救うというパターンは、少年コミックの王道である。
 その時死んだと思われていた仲間が、実は助かっていた、というパターンも多い。
 余談であるが、以前、戦いをメインにした少年コミックを読んでいる小学生が、そのパターンを延々続けるため、コンビニで立ち読みをしている小学生に「こいつ、ホントは生きてんだぜ」などと突っ込まれているというのを目撃したこともある(笑)
 せっかくの感動すべきシーンがこれでは、もはやなんの意味がない。

 コミック・アニメはゾンビの群れ

 実をいえば、自分自身はこういったシーンが好きだし、実際にそのようなシーンを書くこともある。
 だが、ここで私が懸念しているのは、死というものの表現を避けるあまり、死を軽く扱いすぎてはいまいか? ということなのだ。
 死んだように思わせて実は生きていた、というのならば良いのだが、本当に死んでしまったのに、奇跡の力で生き返ってしまうというパターンはどうか? 生き返るだけではなく、あまつさえパワーアップしたりすることも多い。
 その理由付けも、「もっと強くなるために一度死んでみました」的な安直さが感じられるものもある。
 死を見せたくないあまり、死の存在自体を作品中から全く消してしまう、というのはこういうことだ。

 自殺者が増える?

 輪廻とか転生とかいう概念は、辛い現世を生きている人間に対して、必要以上に死を恐れず強く生きていくための希望を与えるだろう。
 が、それと共に、現世に対する逃げ道をも作ってしまうため「現世が辛かったら死んでやり直せばいいや」と思ってしまう人もでてきてしまう。
 まして判別のつかない子供ならば、なおさらである。
 死んだ者は生き返らない、という当たり前の事実を決してあいまいにしてはならない。
 これは明らかに教育に悪い
 なぜなら、どう考えても自殺を促しているようにしか思えないからだ。

 いくらなんでも、それは考えすぎだと思う人もいるだろう。実際考えすぎかも知れない。
 だが、確かにコミックに影響されて、新たな世界を夢見て自殺した少年少女は存在する。
 こういったことは、前回も言ったように個人の問題であって、影響を受けたコミックの内容ではなく、なぜコミックに影響されたくらいで簡単に自殺をはかるのか? という点こそが重要なのであるが。

 私が言いたいのは、出血がダメで、死ぬのがダメで、生き返るのはOKというのは明らかにおかしいということだ。
 画面にちょっとでも血が出るのがダメ、というくらいナーバスに規制をかけるのであれば、自殺者が増えるから生き返るのはダメ、という考え方もあってしかるべきだ。

 作品ごとに規制内容を考えるべき

 こんなアホなことを言っているのは、おそらく私くらいだろうと思う。
 本心から、キャラが生き返るのは規制すべしなどと思ってはいない。
 でも、考えるべきなのだ。
 単に、血はダメ……女性の下着はダメ……ということではなく、なぜダメなのか? なぜOKなのかという判断は、対象作品の作品性や表現の意味まで熟慮して、作品ごとになされるべきなのである。
 単にガイドラインを敷いて、それに従えばいい、ということが問題だと思うのは、ガイドラインの枠内にあれば、すべて教育上正しいということになってしまうからだ。

 なんのために、誰のために規制するのか?
 各団体や個人からのクレームを避け、会社を守る規制だと言うのであれば、それは経営的に正しいと思うので、私は支持したい。
 だが、健全な青少年の育成、犯罪抑止、差別の助長の抑止、という目的を掲げているのであれば、論理的な思考とグローバルな判断力をもって規制を実行して欲しい。
 最近、なにがなんだか、本当にわからない状況になってきている……


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